プロップスゲーム

Twitterほどのプロップスゲームも珍しい。

 

何を言うかよりも、誰が言うか。

 

それを肌感覚で分からせてくれる

 

身の程を教えてくれるこのアカウントは、いつも自分を謙虚にさせてくれる。

 

フォロワーが多いから、影響力が大きいからといって、その人物の発言が正しいことには決してならない。

 

"声の大きさ"に騙されないようにしよう。

 

 

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「生き物だから思い通りにならない」

「生き物だから思い通りにならない」

 

仕方がない。

 

そう心の中で呟く。

 

冷静に考え直してみてほしい。

 

自分も生き物であるということを、忘れてはいないか?

 

電車の中。

 

赤ん坊が元気に泣き喚く。

 

焦る母親

 

眉間をシワシワの竹輪にする周囲の大人たち。

 

「生き物だから仕方がない」

 

「俺も昔はこんな赤ん坊だった」

 

そう思えば、少しは平穏に過ごせるだろうか?

 

もっと良い方法がある

 

と僕は考える。

 

人は、自分が理解できないものに対して腹を立てる。

 

ならば理解して、腑に落とせば良い。

 

「生き物だから思い通りにならない」

 

実は、その赤ん坊の泣き声で青筋立てちゃってる大人たちも同じである。

 

サピエンスの赤ん坊は、"あえて"周囲の大人をちょうどよ〜くイラつかせる周波数の泣き声を発するように進化した。

 

耳障りの良い、チャイコフスキーみたいな大クラシックな泣き声を奏でる赤ん坊は淘汰される。なんてことは想像に容易いだろう。

 

このような視点で女性を深く知ることは、

 

ナンパ活動を優位に進めることに、繋がると思いませんか?

 

 

僕は、そうは思いません。

 

「旅の恥はかき捨て」ならば、常に旅をしていればいい

人と違うことをするのが恥ずかしい。未知との遭遇が怖い。ストリートナンパで地蔵する。

 

場が凍りつかないだろうか?又隣の台の20トリプルを射止めるぐらい的外れなことを言おうとしているのでは?等と考えすぎて発言を躊躇う。

 

 

このような、失敗や挑戦への恐怖心は、事あるごとに我々の人生の邪魔をし、鮮やかだったはずの世界を色褪せさせる。

 

チャレンジしない、逃げという選択肢が、結果的に一番ハイリスクである。

 

という事は頭のリビングの中の本棚の上ぐらいには位置させていながらも、行動には中々移せないという人も多いのでは無いだろうか?

 

 

この現象に対する、画期的な解決策が見つかったらしい。それは、

 

恥の想起を行うこと

 

更に言えば、他人に対して恥の共有作業まで行うと良いという。

 

恥ずかしい体験をした時の記憶を呼び起こす事によって、頭のネジを吹っとばせるという研究結果が出ている。自分の中の、くだらない見栄やプライド、こうなって欲しいという理想、どうせこう思われるだろうという偏見が抑制される。挑戦するに当たってのハードルがグッと下がる。障害物競走のパンの打点が少し低くなる。その結果、挑戦しやすくなる。

 

これは別に、自分のことを卑下しろという意味合いでは無い。

挑戦から逃げたいがために、自己防衛のために、ただ言い訳がしたいがために、自意識だけが肥大化してしまうことは往々にしてある。その自意識を正常に戻してあげる作業だ。

そもそも、自分ってそんなにスゲえヤツなのか?失敗が許されない立場なのか?振り返ってみれば幾度となく失敗を重ねてきたからこそ、今があるのでは無いのか?

 

 

あんなに恥ずかしかったあの時に比べればマシだわ、という事でもある。

 

渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で大量の角膜や水晶体、瞳孔らに見守られながらナンパしたあの時を思い返せば、井の頭通りでナンパすることなんて朝飯2人前だったりする。

 

 

これを上手く利用すれば、常に無双状態でいられるという事に気付く。強走薬を切らさなければいい。

 

そのためには、どうすれば良いだろう?

 

まず、自分の過去〜現在において恥ずかしかった, または失敗した体験を全てノートの同じページに書き出す。いわば恥ノートを作成する。

一通り書き出すと、とても無双とは程遠い数やランクの恥しか無いことに気付く。

 

でも、ありがたいことに、恥は自ら生産できる。

 

補助輪を使ってでもいいから、負荷の高い行動をし、良質な、レア度の高い恥を生産してみると良い。

 

恥をかくたびに、強くなれる。

 

 

人生は、恥をコレクションするための旅だ。

 

 

なんて思いながら日々を生活していくと、過ごしやすくなるのかもしれない。

 

 

(参考文献:メンタリストDaiGO)

 

 

 

 

 

 

 

3種の自信

"根拠の無い"自信から"根拠のある"自信が生まれる。

 

スタートはいつだって、根拠の無い自信。

 

天狗でいい。鼻なんて、長すぎるぐらいが丁度良い。

 

ボキボキと、曲げたわめてへし折られて、

 

気が付いたら丁度良い、ヒュー・ジャックマンの鼻になっている。

 

振り返ってみると、その自信には紛れも無い根拠がある。

 

根拠の無い自信。

 

さっき、一口に根拠の無い自信と言っても、2つに分類できることに気付いた。

 

「正しい根拠から生まれる自信」と、「誤った根拠から生まれてしまう自信」

 

後者は、もはや自信とも呼べないものなのかもしれない。

 

それは傲慢さに限りなく近いものであり、持つと正しい方向性を見誤るきっかけに成り得てしまう、壊れたコンパスのようなモノ。

 

尊大で、虚飾で、衒気で。

 

"根拠のある"自信。

 

その根拠は、本当に正しいのか?

 

たまには、振り返ってみる必要があるのかもしれない